加登屋のメモと写真…

くすはら順子さんの個展を観る

清流出版 (2012年4月11日 18:43)

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ユニークな作品群

 

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美人姉妹のツーショット

 

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清流出版メンバーとくすはらさん(撮影:臼井雅観)

 

 

●自由奔放なタッチ、風変わりなフォルム――才能ある方!

 

・くすはら順子さんは、僕がお気に入りのイラストレーターである。弊社発行の月刊誌や単行本のイラスト、装画など、すばらしい作品を提供してくれている人だ。その作風はといえばペン、筆、パステル、グァッシュなどを駆使した画で、自由奔放なタッチ、風変わりなフォルムが持ち味である。連載エッセイをスタートさせる際、イラストレーターとしてくすはらさんを指名した方もいる。そのお一人が、産経新聞の「産経抄」を35年間、書き続けたことにより菊池寛賞を受賞したコラムニストの石井英夫さんである。いまも月刊『清流』に連載中の石井さんのコラム「いとしきモノたち」は、添えられたくすはらさんの絵がアクセントとなってユニークな誌面となっている。また、連載はすでに終了したが、金田一秀穂さんのコラム「気持ちにそぐう言葉たち」でもくすはらさんのイラストが、文章との間に妙な緊張感を生み出して、僕は大いに笑いながらその誌面を楽しんだものだ。

そのくすはらさんから個展の案内状をもらった。顧問の斎藤勝義さん、編集担当の金井雅行君、出版部の臼井雅観君を誘い都合4人で出かけた。個展会場は、銀座6丁目の「ギャラリー近江」である。僕がよく通っていた文藝春秋画廊や交詢社ビルがほど近い画廊であった。会場に着いてみると、月刊『清流』の秋篠貴子君がいたので、清流出版の関係者は5人になった。

 

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会場入り口の招き猫?

 

・会場の入り口には、ネコをモチーフにした陶器がチョコンと置かれ、来場者を迎えてくれる。早くも「くすはら順子はタダモノじゃない」という雰囲気が漂う。案内には「作陶器展」とあったが、実際は陶器と絵画の二本立てであった。会場の半分ほどは、テーブルの上に陶器作品を並べ、会場の壁面にリキテックスによる絵画作品を展示していた。この平面(絵画)と立体(陶器)の組合せが両々相まって、くすはら順子の摩訶不思議な雰囲気を醸している。

 

・まず、陶器をじっくり見せてもらった。文字に表わすのは難しいが、くすはらさんの巧みな才能を感じた。ほとんどが動植物をモチーフに器とドッキングさせたもので、ファンタジックな世界に誘い込まれる感じだ。鳥をかたどって、魚をイメージして、あるいはネコ、そして草花などをモチーフに、器と融合させた作品群……不思議な形状と陶器が次々現われる。約50点の作品が、ことごとくユニークで、日本ではない風土を、多分、東南アジアをはじめ、メキシコ、中南米、アフリカ等を連想させる形状。ある人が「ガウディに近い」と言ったが、それも確かに頷けた。ガウディの建築に似ているなど、ほめ言葉としても最高! 僕は、シュルレアリズムと抽象主義をつなぐ存在の画家、アーシル・ゴーキーの雰囲気を感じた。それほど自由奔放に遊んでいる。今回のくすはらさんの個展は、僕のあくまで個人的判断だが、断然、陶器の方が好きだ。くすはらさんの立体造形の感覚は日本人離れしていると思う。

 

・会場の壁に飾られたリキテックスによる絵画も、面白かった。今まで見かけたことのない秩序と構成の絵画である。陶器には見られなった規則的な線と色で構成された絵が多い。シンプルで、抑制された画風。およそ、くすはらさんらしからぬ作品といえようか。でも、ひょっとしたらこれらの作品は、あえて静かなふりを装っているのかもしれない、と僕は深読みする。あえて絵画の部分は、「私だってきちんとした絵が描ける」と自己主張している。約30点の作品のうち、会場の奥に展示された二枚の作品は、ものすごく気に入った! あとの作品は一枚のキャンバスのうち、三分の一しか描き込みがない。残りは、白基調に塗りつぶされた空間が三分の二ほどあって、その部分は、みなさんの想像力、イマジネーションで埋めてみれば……とでもいっているようだ。挑戦されているようで、なんだかわくわくさせられる! 

 

・会場の片隅に、これまでくすはらさんが装画を手掛けた本のカバーが展示されていた。その中に弊社の本で思い出深い『愛しの太っちょ――ダイヤモンド・ジムの生涯』(H.ポール・ジェファーズ著、仙名 紀訳、定価2940円、2008年刊)を手に取って、しばし感慨にふけった。この本は、シルクハットと燕尾服の太っちょ姿が描かれているが、黒の色調がとても効果的であった。実在の成金だった、ダイヤモンド・ジムは金に飽かせてグルメ三昧。でっぷり太った姿に大粒のダイヤを身に着けた装画は、なんとも愛敬があって微笑ましかった。そして、この翻訳に纏わるエピソードを思い出した。最初、僕の畏友、徳岡孝夫さんに翻訳を依頼したのだが、その後、徳岡さんは視力が低下して目が見えにくくなり、残念ながら翻訳を途中で断念された。そこで僕は、急遽、仙名紀さんにバトンタッチをお願いして完成させた経緯がある。いわば毎日新聞出身者(徳岡さん)から朝日新聞出身者(仙名さん)にリレーしたことになるが、お二人とも僕のかつての仕事ぶりをよく知る方なので、スムースに移行できた。いい仕事をしてくれたくすはらさんには心から感謝したい。帰り際、くすはらさんのお姉さんがたまたま来合わせた。お二人は大阪の出身だが姉君は嫁ぎ先が横浜だったとのこと。現在も横浜在住だという。お名前は大畑悦子さん。主婦業のかたわら、ピアノを教えているという才媛である。美人姉妹にさよならするのは残念だったが、後ろ髪を引かれながら会場を後にした。

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・「ギャラリー近江」に行ったメンバーは5人。清流出版メンバーが銀座に集うことは、めったにない。この後、美味しいお昼ごはんを一緒に楽しんだ。

 

 

 

瀬川昌治さんの演出した舞台を堪能!

清流出版 (2012年3月16日 11:07)

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・映画監督・瀬川昌治さんが、『乾杯!ごきげん映画人生』(定価2100円、2007年1月刊)に続いて、自伝的エッセイ第二弾『素晴らしき哉 映画人生!』(定価2310円、2012年3月刊)を弊社から刊行の運びとなった。今回は、僕も大好きなアメリカのフランク・キャプラ監督の名画『素晴らしき哉 人生!』をもじった書名である。映画ファンだったら、このタイトルに惹かれ思わず手に取るはずだ。瀬川さんと言えば、喜劇映画の名手の異名をとるが、脚本家、舞台演出家もされている。1925(大正14)年生まれで御年87歳になる。東京帝国大学文学部英文科の卒業である。東大時代、俊足・好打の野手として東京六大学野球でも大活躍された。

・瀬川さんの1歳年上の兄上・瀬川昌久さんも東京帝国大学法学部の卒業。富士銀行に入行し、ニューヨーク支店駐在中からジャズ評論を開始され、退職後は、音楽関連レクチャーやコンサート企画などを精力的に行った。弊社から『ジャズで踊って――舶来音楽芸能史』(定価2100円、2005年10月刊)を刊行されている。さらには三男・瀬川昌昭さんも東京帝国大学政経科を卒業し、NHKに入局。社会番組部長などを歴任され、現在は(株)瀬川事務所社長である。まさに秀才三兄弟だが、皆さん趣味が高じて実業として成り立たせている。これが僕にはうらやましい限りだ。このご兄弟も高崎俊夫さんが紹介してくれ、清流出版と縁を結ぶことができた。

・今回の『素晴らしき哉 映画人生!』の仕掛け人も高崎さんである。「清流出版ホームページ」の『高崎俊夫の映画アット・ランダム』欄ですでに二ヵ月前、この本について詳述されている。だから今回の僕のブログでは、新著の紹介は省かせていただく。詳しく知りたい向きは、高崎さんのブログを見ていただきたい。前著と少し違うのは、寺岡ユウジさんに編集協力をお願いしたこと。瀬川さんが眼の手術をされ、十全な執筆活動ができない不安があった。そのため、寺岡さんが取材を重ねて元原稿を起こしたもの。取材は20回以上に及び、実に四年がかりであった。その原稿に視力を恢復された瀬川さんが手直しをされ、完全原稿に仕上げたというわけだ。取材のほとんどは、九段会館の喫茶室で行なわれたそうだが、3月11日の東日本大震災による天井崩落事故によって会館は閉鎖された。そのこともあり、刊行スケジュールが延びてしまった。僕も何度も経験があるが、一冊の本が出来上がるまでには、いろいろハプニングがあるものだ。

・実は3年ほど前から、瀬川さんは「瀬川塾」を作り、後輩の若い俳優たちを育てておられる。今回、瀬川塾3周年記念特別公演のご案内を瀬川さんからいただいたが、面白そうな企画なので、清流出版のメンバー総勢10人で観劇に出かけた。会場は、築地本願寺のブディストホール。演目は鈴木聡作の『凄い金魚』である。演出はもちろん瀬川さん。出演者は瀬川塾の塾生18人に、ベテラン俳優の村山龍平さん、著名なコメディアンの山口ひろかずさんが協力出演している。鈴木聡さんは博報堂のコピーライターとして活躍する一方、劇団「サラリーマン新劇喇叭屋」(現・劇団ラッパ屋)を結成、演出家として二足の草鞋を履きながら活躍されている。この鈴木聡さんの『凄い金魚』、瀬川さんが目をつけ、演出に臨んだ。曰く――「ラッパ屋 鈴木聡の世界に喜劇映画の名手・瀬川昌治が挑む!」

・ちょっと長いが、話の顛末を皆さんにご紹介しよう。
≪中央線沿線のとある町にある高野家。映画プロデューサーである主人公・幸太郎はバツイチで、今は実家で妹、父、祖父と共に暮らしている。駅から徒歩圏内にあるちょっと古いその家の中庭には池があり、昔から金魚が飼われている。ある夏の日、幸太郎が幼い時分から毎年、ボランティアで池掃除をかって出てくれる「金魚のおじさん」が訪れたところから始まる。高野家の誰もそのおじさんの名前も素性も知らない。≫
≪たまたま家にいた幸太郎の大学の後輩・吾郎は、その怪しげなおじさんと口論となる。そこへ幸太郎と妹・聖子が現れて、ひとまずその場は収まる。≫
≪この時、離れで寝ていたはずの祖父・高野潤三が亡くなっていたことが発覚。亡くなった祖父はジャズ好きで洒脱なおじいちゃんだったらしい。あいにくの父の不在――山へ行ってくると言ったまま、数日間家を空けていた――もあり、葬式の手配にてんやわんやの長男・幸太郎。≫
≪金魚のおじさんの手助けもあり、その日のうちに通夜の手配をし、高野家は一転、親戚、知人、そして幸太郎の元妻・夏子、家を出て行って久しい長女の文子も会して賑やかな夜を過ごしていた。そこへ父・英太郎がリュックを担いで帰宅し、家族全員が集合。その後、祖父は趣味の映画作りで散財した結果として、その家を手放さなくてはならない、という新事実が明かされる。≫
≪あわてふためく家族。幸太郎は元妻・夏子とよりを戻したいと思っていた。ところが父・英太郎と夏子の会話を聞いて、「山へ行く」と言っていた英太郎が実は夏子と2泊3日で出かけていたことを知り、幸太郎は荒れまくる。高野家はさらなる混乱の迷路に入っていく。だが、あまりにも悪いことばかりの連続に、かえって開き直る幸太郎。すべてを受け入れ、明日からも生きていくことを亡き祖父に誓うのだった。≫

・早足でストーリーを紹介したが、ラストシーンは、暗くなった舞台に、祖父から父・英太郎に宛てた遺言テープの声が流れる。昼寝から起きていた幸太郎は英太郎と夏子との間に起きたことを知っている。やりたいことをやれ。淡々と語る祖父の台詞は、妙に頷ける。この話、微妙に現実の世間を皮肉っているように僕は思える。この演劇、初演は1996年4月だが、1997年11月にも公演、なんと驚くのは昨年1月「座・高円寺1」の公演、大地震があった昨年3月に「ラッパ屋第37回公演」、今年も2月に劇団ひまわりで「アトリエ新人公演」と、今回の3月に「ラッパ屋 鈴木聡の世界に喜劇映画の名手・瀬川昌治が挑む!」と、何回も公演が打たれていることだ。

・瀬川さんは、「お客さんには人間の機微に注目して観てもらいたいですね。話も二転三転、おもしろく展開していくので、観ていて飽きない作りになっています。セリフも非常におもしろい。塾生は完ぺきではないかもしれないけれど、おもしろく感じてもらえるはずです」と自信の演出と胸を張る。われわれ清流出版社員一行も、大いに楽しんだ。やはり演劇はこうでなくちゃ。

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ピアニストのフジ子・ヘミングがベストセラー!

清流出版 (2012年2月21日 10:07)

 

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弊社で今まで一番売れている本がこれ!

 

・これまで弊社で刊行した単行本はざっと500点。そのうち一番売れて、今でも注文が途絶えることがないのが、人気ピアニストが書いた『フジ子・ヘミングの「魂のことば」』(2002年、定価1260円)である。今まで32刷を重ねてきた。僕はフジ子・ヘミングのコンサートを仕事がらみ、あるいは個人的にと、何回か聴きに行ったことがある。招待されていったあるホテルでのパーティでのこと、ゲストで彼女が登場した。「ラ・カンパネラ」を含む三曲を演奏して、大きな拍手を受けたのち、彼女が舞台袖の階段を降りてきた。驚いたことには彼女がまっすぐに僕のもとに歩いてきて、分厚く柔らかい手で握手してくれた。まあ偶然、大勢の観客の中から車椅子に乗っている身障者の僕に目を付けて足を運んでくれたのが真相だろうが、今をときめくピアニストだっただけに大いに感激したものだ。

 

・華道家の假屋崎省吾さんは、クラシック音楽をバックに流しながら花を活けるというクラシック好き。フジ子・ヘミングのファンでもある。その假屋崎さんには月刊『清流』に「暮らしに根ざした生け花」を連載、それをまとめて『假屋崎省吾の暮らしの花空間』と題する本を弊社から出させていただいた。それをきっかけに、毎年、目黒雅叙園で行われる「假屋崎省吾のブライダル・ファッションショー」にご招待をいただき、楽しみに出席してきた。ある年、假屋崎さんはこのファッションショーのゲストにフジ子・ヘミングを呼んだことがあった。ピアノ曲を数曲演奏したが、弊社の編集担当だった秋篠貴子、出版部長の臼井君と僕はこの演奏を大いに楽しんだ。そういうわけで、フジ子・ヘミングには格別の親近感をもっている。

 

・この本は、フジ子・ヘミングをよく知る外部スタッフの宣田陽一郎さんを仲介者として、編集協力の水野恵美子さん、出版部長の臼井君らが担当となって取り組んだ本であった。そもそも宣田さんは『猫びより』という愛猫家向けの雑誌の編集長をしていたとき、猫好きのフジ子・ヘミングを取材し、心が通じ合ったのである。幸いなことに臼井君も大の猫好きとあってスムーズに編集作業は進んだ。カバー装画も、文中の猫のイラストもフジ子・ヘミングが描いたもの。絵も各地のデパートで個展を開くほどの腕前である。新書判上製なので小さ目でもちやすく、お洒落な本に仕上がった。その後も僕は何回かフジ子・ヘミングのコンサートに出かけ、たまたま会場にいた実弟の大月ウルフさんに名刺を渡し、わが社の本の販促をお願いしたこともある。父君がスウェーデン人のフジ子・ヘミング姉弟。バイキングの末裔を自称するウルフさん。彼のドラ声で、清流出版の社名が津々浦々まで伝わっていくことを祈ったものである。

 

・今、改めて弊社刊行の本をジャンル毎に分析すると、音楽、映画、絵画、文芸エッセイなどが上位に並ぶ。このような結果が出ることに、僕は予想通りと安心すると同時に、いささか心配もしている。弊社の音楽、映画、絵画……等の芸術領域のジャンルは、正直言って売れても弊社の主流路線とはなりえず、編集者と僕の趣味の範疇と思って刊行してきたきらいがある。今後は、趣味的なジャンルではなく、稼ぎ手のジャンルとするために真剣に企画を練った方がよいだろう。

 

・この機会に音楽ジャンルの話を少ししておきたい。音楽と言ってもクラシック、ジャズを始め、フォーク、ゴスペル、ラテン、ニューエイジ、ワールド、カントリー、ポップ、ブルース、ロック、リズム&ブルース……等、ジャンルは幅広く、またクラシックに限っても、オペラ、歌曲、ミサ、カンタータ、交響曲、協奏曲、室内楽、ピアノ曲……と様々で裾野はとてつもなく広い。気に入ったジャンルについて今後はこのプログで随時触れていきたい。

 

・僕は右半身が不自由なためコンサートへは滅多に行けない分、アイポッドを使って、毎日4時間以上、音楽を聴いている。趣味に関しては音楽に割く時間が一番多い。二つのアイポッドに収録されている音楽は、優に3万曲を超えている。毎日寝ないで40曲ずつ聴いたとしても、計算上きちんと聴くには、優に2年以上はかかる。就寝時は、何の曲を聴きながら寝ようかと嬉しい悩みである。小さな音もクリアな音で聴けるボーズ(BOSE)スピーカーやシュアー(SHUREのイアーフォンを愛好して、すっかりステレオ装置を使わなくなった。かつて楽しんだタンノイ、マッキントッシュなどのステレオ装置は存在すら忘れている。

 

・クラシックの専門家でない僕は、一ファンの備忘録として書いておこうと思う。ウィキペディアや音楽の資料本を使い必要な情報を集めたい。これまでレコード、レーザーディスクMD、CD、パソコン、アイポッドなどによって音楽を楽しんできた。クラシックは中学生の頃から好きだった。やがて高校生になって、池袋東口にあった音楽喫茶「白鳥」へ親友の長島秀吉君と日参するようになる。「白鳥」に学校から直行し、毎日夜9時くらいまで教科書を忘れて、各種の芸術?本と英独仏の辞書持参で、クラシックを聴きながら青春の時を過ごした。語学に興味をもったのには理由がある。高校の先輩、西江雅之さんの存在である。当時、伝説になっていた語学の天才、ポリグロットぶりの西江雅之さんに、少しでも近づきたい気持ちがあったからだ。西江さんと僕は同じ町内、家もわずか100メートルくらいしか離れていなかった。「西江伝説」はご近所の噂話として聞こえてきていた。それにしても、われわれ付属校生は大半がエスカレーター式に志望学部に進める特権があった。受験勉強をする必要はなく、高校の3年間はいわば至福の時期であった。

 

・さて、このブログはまず手始めに19世紀生れの天才、ラフマニノフを取り上げてみたい。セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ、1873年生まれ、1943年没のロシア人のピアニストである。身長が2メートルに達する巨漢であり、必然的に巨大な手の持ち主だった。12度の音程を左手で押さえることができたと言われている。 

 

・セルゲイ・ラフマニノフは10歳くらいの頃、両親が離婚、ロシアピアニストで音楽教師であったズヴェーレフに引き取られる。名伯楽として名高く厳格な名教授ズヴェーレフ師は、ラフマニノフの才能をひと目で見抜いた。毎日のように精魂込めて彼を指導した。ピアノ演奏の基礎を叩き込んだ厳格な師は、弟子たちにピアノ演奏以外のことに興味をもつことを禁じた。しかし数年後、ピアニストとしての精進を求めるズヴェーレフ師と、作曲の喜びに目覚めたラフマニノフは決裂してしまう(師が同性愛者だったことに抵抗してという説もある)

 

・ラフマニノフ以前、60年前、同じピアニストの天才、ハンガリー生れのフランツ・リスト(1811年-1886年)にもちょっと触れておきたい。彼は超絶的な技巧をもつ最高のピアニストで「ピアノの魔術師」と呼ばれた。あのズヴェーレフもリストを優れたピアニストだと認めていた。だが、リストの「作曲」については、師は一言でことごとく「凡庸だ!」という評価をくだした。現代ではだれが何と言おうと、リストは偉大な作曲家という評価が定着している。作曲への衝動を抑えきれなかったラフマニノフは、やがてズヴェーレフ師と対立し、邸を出ることになる。

 

1891年に18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を金メダルの賞を得て卒業した。金メダルは通例、首席卒業生に与えられたが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛びぬけて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席(大金=ラフマニノフ)、次席(小金=スクリャービン)として分け合った。

 

・だが、ラフマニノフは鬱傾向と自信喪失に陥り、創作不能の状態となる。1899年にロンドン・フィルハーモニック協会の招きでイギリスに渡ったラフマニノフは、ここでピアノ協奏曲の作曲依頼を受け創作を開始するが、再び強度の精神衰弱におそわれる。1900年に友人のすすめでニコライ・ダーリ博士の催眠療法を受け始めると快方に向かい、同年夏には第2、第3楽章をほぼ完成させた。最大の難関だった第1楽章も同年12月頃に書き始め、1901年春には全曲を完成させた。初演は大成功に終わり、その後も広く演奏されて圧倒的な人気を博した。本作品の成功は、ラフマニノフがそれまでの数年間にわたるうつ病とスランプを抜け出す糸口となった。作品は、ラフマニノフの自信回復のためにあらゆる手を尽くしたニコライ・ダーリ博士に献呈された

 

ラフマニノフはその頃、アンナという年上の女性に恋していた。溢れる思いは壮麗な旋律となり、やがて初めての交響曲が生まれる。だが、「交響曲第1番」の初演は失敗に終わり、ラフマニノフは恋と名声を一夜で失う。アンナに捧げ尽くした傷心のラフマニノフに、救いの手を差しのべたのは従妹のナターリヤ・サーチナであった。その前にも、彼がピアノ教師を務める高校の生徒、マリアンナと恋に落ちている。彼女の魂と肉体の輝きは、ラフマニノフに旋律を生み出す力を与えた。「ピアノ協奏曲第2番」を書き上げたラフマニノフは、苦しい時に見守ってくれたナターリヤ・サーチナの愛に気付いてプロポーズする。数年後、ロシア革命から逃れようとした時、皮肉にもロシア革命の闘士となったマリアンナの出国証明を受け、脱出に成功する。1902年には従妹のナターリヤ・サーチナと結婚。彼女は生涯の妻として存在する。191712月、ラフマニノフは十月革命が成就しボリシュヴィキが政権を掌握したロシアを家族とともに後にし、スカンディナヴィア諸国への演奏旅行に出かけた。そのまま二度とロシアの地を踏むことはなかった。

 

・ロシア革命の難を逃れてアメリカへ亡命した結果、ラフマニノフに幸運の女神がほほ笑むことになる。コンサート主催者のピアノを宣伝するためピアノ製作者スタインウェイの後押しでアメリカ全土を公演して回り、成功裡に公演旅行を終える。今でこそ押しも押されもせぬスタインウェイ&サンズも、当初は知名度も低く、大変な営業努力を要したようだ。最初の演奏会は、ニューヨークのカーネギー・ホールだった。その時、観客席にソ連大使一行がいるのを見つけたラフマニノフは、彼らのためには断固として演奏しないと宣言し、演奏を拒否する。その硬骨漢ぶりに、ホールの聴衆はやんやの喝采を送った。ほうほうの体でソ連大使一行が退出するのを見届け、やっと演奏を開始したという。

 

・ラフマニノフの生涯は、輝かしいものだった。数々の女性にもて(失恋もある)、財産もできた。念願の作曲も支持されたのだから。いずれにせよ、ラフマニノフはチャイコフスキーの薫陶を受け、モスクワ楽派(音楽院派、西欧楽派などとも呼ばれる)の流れを汲むと言われた。そして、リムスキー=コルサコフの影響や民族音楽の語法をも採り入れて、独自の作風を築いた。今日、ラフマニノフはロシアのロマン派音楽を代表する作曲家の一人に数えられる。やはり米欧でピアノ・ヴィルトゥオーソとして定着している。作曲は、わけてもピアノ曲を中心とした様々な分野の作品を残している。

 

・時代が移り、ナチス・ドイツが台頭してくると、当時、別荘を建て、ヨーロッパ生活の拠点としていたスイスに滞在することもできなくなった。最後の作品となる交響的舞曲を作曲したのは、アメリカのロングアイランドでのことだった。1942年には、家族とともにカリフォルニア州のビバリーヒルズに移り住むことになる。

 

・ここでラフマニノフの生涯と、その人生を変えた3人の女性を描いた映画をご紹介しよう。ロシアの「ラフマニノフ ある愛の調べ」(2007年製作)がそれだ。監督は「タクシー・ブルース」のパーヴェル・ルンギン。出演者はエフゲニー・ツィガノフ(ラフマニノフ)、ヴィクトリア・トルストガノヴァ(ナターリヤ・サーチナ)、アレクセイ・ペトレンコ(スタインウェイ)など。ロシアの映画をあなどるなかれ、これがなかなかにいい。この映画の最後では、ラフマニノフが、新曲が生まれない苦しみから、日に日に憔悴していく姿が描かれている。それでも演奏旅行は続けなければいけない。そんなある日、ライラックの花束が届く。その甘い香りはラフマニノフに切ない記憶を甦らせた……。生涯を変えた3人の女性の思い出がちらちらと観ている僕に訴えてくる。巧みな手法である。実際は、演奏の旅を続けるラフマニノフの帰りを待っている妻ナターリヤ・サーチナが、オランダから取り寄せた黄色いライラックだった。雨が降ってきた庭にライラックを植えて、旅から帰ったラフマニノフと妻、そして愛娘が抱き合う。かつてピアノ独奏曲にも編曲した歌曲「ライラック」作品21-51941年)が決定的な場面で使われる。

 

・現実のラフマニノフは左手小指の関節痛に悩まされながらも、演奏活動を亡くなる直前まで続けた。だが、1943年、70歳の誕生日を目前にして癌のためビバリーヒルズの自宅で死去した。ラフマニノフ自身はモスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬されることを望んでいたが、戦争中のことでもあり実現できず、ニューヨーク州ヴァルハラのケンシコ墓地に埋葬された。

 

・駆け足でラフマニノフの生涯を見てきたが、ラフマニノフはピアノ演奏史上有数のヴィルトゥオーソであり、作曲とピアノ演奏の両面で大きな成功を収めた音楽家としてフランツ・リストと並び称される存在である。あの「のだめカンタービレ」でもラフマニノフのピアノ協奏曲第2番ハ短調、作品18、第1楽章が、千秋真一(玉木宏)がピアノ奏者としてシュトレーゼマン(竹中直人)と共演した曲として登場する。いろいろの場面で、今後ますますラフマニノフファンが増えることを期待する。

 

・僕はピアノ演奏ができないのだが、昨年12月某日、母の95歳の誕生を祝って、入居している老人ホームに出かけた折、僕の弟と甥が交互にピアノ演奏で母を励ましてくれた。二人とも公務員で、時間的に余裕があり、うらやましい境遇にある。そのピアノ演奏が約1時間30分続いた。ハイライトは難曲と言われるラフマニノフの『ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調』を甥が暗譜で弾いた。

 

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ロシアのピアニスト兼作曲家兼指揮者、ラフマニノフ。「ピアノの魔術師」リストの再来といわれた。

 

「メディア王とマスコミ王」を企画し、出版した話

清流出版 (2012年1月19日 15:51) | コメント(0) | トラックバック(0)

 

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二人のメディア王が、時代を動かした……

 

 

・今から約半世紀前になろうか、1冊の本を読んで驚いた記憶がある。ダニエル・J・ブーアスティン著『幻影の時代』(後藤和彦・星野郁美訳、東京創元社刊、1964年)が、その本だ。英文の原題は『The Image』(『ジ・イメージ』)。それが邦題では『幻影の時代』となったのが僕にとっては新鮮な驚きだった。「ジ・イメージ」では写真やデザインのジャンルの本のように思えるが、「幻影の時代」という邦題は的を射た書名だ。サブタイトルも、原題は「or,What Happened to the American Dream」で、直訳すれば「または、アメリカン・ドリームに何が起こったのか」だが、邦題は「マスコミが製造する事実」であった。この邦題を見ればマスコミ界の欺瞞を鋭く指摘した社会思想の本ではないかとすぐ分かる。

 

・ブーアスティン曰く「われわれは、幻影にあまりに慣れきってしまったので、それを現実だと思い込んでいる」、「われわれは、現実ではなく、現実の代わりに置き替えたイメージに取りつかれている」など刺激的なフレーズが並ぶ。それにしても、半世紀も前に現在の状況を見事に見抜いた慧眼ぶりには驚くしかない。ブーアスティンが「成功した政治家とは、疑似イベントを作り出す新聞やその他の手段を巧みに利用する人を意味する」、「現代のニュースがそこかしこで起きた事実を報道するのではなく、人々の興味に添った形で製造されている」と喝破していた。半世紀前も、世は三権分立ではなく、四権分立といわれる頂点に報道(マスコミ)がデンと鎮座ましまして、その「報道」を征する者、「メディア」の覇権をとった者が世を動かすことを追究していた。

 

・ダニエル・J・ブーアスティンが説いている社会思想のジャンルではないが、僕は24年後、類似のテーマで文字通り体現した男が2名いて、それぞれの半生記を編集している。清流出版の前の出版社の時、英国のメディア王、マスコミ王について、僕は2冊の翻訳企画を刊行した。1冊は『マックスウェル――情報覇権に賭ける奇蹟の人生』(ジョー・ヘインズ著、田中至訳、ダイヤモンド社刊、1988年)。もう1冊は『マードック――世界制覇をめざすマスコミ王』(ジェローム・トッチリー著、仙名紀訳、ダイヤモンド社、1990年)である。ビッグ・スケールの実業物語がものを言って、2冊とも期待以上に売れた。

 

・いま世界的に政治とマスコミの絡みがしばしば話題となっている。そして、今日、再び世がこうしたメディア王、マスコミ王に注目しつつあるので、翻訳テーマである主に英国やアメリカの情報覇権について触れておきたい。今回の話題の主は、オーストラリアはメルボルン出身のメディア王マードックである。僕が翻訳出版した頃、ルパート・マードック(当時は59歳だったが、現在81歳)は、マスコミ界の帝王として、新聞、雑誌、書籍、放送、通信衛星によるCATV、さらに航空会社、映画会社、ホテル、農場まで幅広く手を広げていた。支配地域もオーストラリアから、アメリカ、英国、ヨーロッパ大陸に及び、アジアもターゲットになりつつある段階だった。マードック帝国の資産は、当時すでに二兆円と言われていた。日本のメディア総体の年間売上高が約二兆円と言われた時代にである。

・翻訳刊行後もマードック帝国は買収による拡大が続いた。固有名詞を出せば、みなさんもよくご存じの英国の名門紙タイムズやアメリカの映画会社20世紀フォックスの買収から、アメリカでのテレビ・ネットワークFOXやニューズ・コーポレーションを設立、2005年には当時世界最大のSNS/MySpaceを買収、その影響力をネット世界にまで拡大させている。そして、メディア王マードックの強引な手法がしばしば報道され、問題視されることになった。

英国のメディア産業も支配してきたマードックだが、歴代の英国首相も彼を恐れるあまり、気を遣い盛大にもてなしてきた。マードック・ウォッチャーの僕にとって、2011年はマードック関連のニュースが盛り沢山だった。それもマードック帝国にとって芳しくない出来事が続いてである。その最たるものが、傘下にあった英国タブロイド紙「ニューズ・オブ・ザ・ワールド」の盗聴事件だった。2002年、英国で行方不明になった少女(13歳のミリー・ダウラーさん)の携帯電話の伝言を消し、家族に生存の希望を抱かせていた事実が発覚した。結局、少女は後に遺体で発見されたが、マードック率いる米「ニューズ・コーポレーション社」の株価は暴落。ロンドン警視庁や政界との癒着も浮き彫りになった。盗聴は、ウィリアム王子から一般市民にまで及んでいたそうだ。マードックは、ロンドンでダウラーさんの両親らに謝罪し、英各紙に「遺憾」で「許されない」との謝罪広告を掲載したが、遅きに失した。ついに2011710日発行を最後に168年間続いた日曜版大衆紙「ニュース・オブ・ザ・ワールド」(週376万部)が廃刊の憂き目をみることになった。

・そして今、オーストラリア、英国、アメリカのメディアを支配してきたマードックの情報帝国が音を立てて崩壊しつつあるとの報道が次々出てきた。81歳になるマードックは、過去、結婚を3度している。70歳の時、当時30歳だった徐州生まれのウェンディ・デンと3度目の結婚、2女を儲けている。それ以前、離婚した2人の妻との間に男子3名がいる。この3名が後継の座を争い、次男のジェームズ・マードックが一応勝利した。彼は米ニューズ・コーポレーションで副最高執行責任者(COO)を務め、英紙「サン」「タイムズ」、それに「サンデー・タイムズ」を発行している英新聞発行事業会社の取締役を務めていた。だがなんと驚くべきことに、20119月、そのジェームズ・マードックがこれらの役職を辞任していたことが規制当局への報告書でわかった。このまま2代目のジェームズ・マードックが消えるとなると、マードック帝国は今後どうなっていくのか? メディア周辺の動きは現在も流動的で、ウォッチャーとして僕は興味津々で、その動向を見守っている。

・メディア王のもう一つの企画の話に移る。マードックの本を翻訳する前に、僕はイアン・ロバート・マックスウェルという人の翻訳書に携わった。今からザっと24年前、1988年まで遡る。当時、英国ではマックスウェルが情報化社会の覇権をめぐって大活躍していた。情報産業を主力に新聞、放送、雑誌・書籍、印刷からヘリコプター会社、語学教育、科学出版まで、世界各地に幅広く展開、急成長を遂げていた。マックスウェルは政治家でもあり、サッカー・チームのオーナーでもあった。

 

・その企画の話が出る約10年前、知り合いだったジャーナリストの田中至さんは、当時、マックスウェルの率いる「ミラー・グループ新聞社」東京特派員をしていた。その田中さんから、ジョセフ・トーマス・ヘインズという人が『マックスウェル』(マクドナルド社刊)という単行本を出した話を聞いた。早速、僕は版権交渉に入った。その時点で、英国出版界でもマックスウェルが売れ線だとにらんだのだろう、アラウム社とバンタム社で同じく『マックスウェル』を題材に緊急刊行が決まっていた。いち早く翻訳出版しようとした僕の動きは、出版界(日本のみならず英国)でもびっくりするほどのスピードだったようだ。

 

・コロンビア大学大学院新聞学科卒で、英語が得意の田中至さんに翻訳を依頼したが、スピードアップを図るため翻訳家の吉田利子さんにもお手伝いをお願いした。田中さんの話だとヘインズは6ヵ月で本書を書き上げたとのこと。だったら翻訳を半分の3ヵ月でやろうと決意した。田中至さん、吉田利子さんを叱咤激励しながら、原書525ページのところを一部割愛し(それでも翻訳書に512ページを要した)、同じ年の9月に上梓することができた。お蔭で発売と同時に売れに売れ、1か月後には増刷となった。

 

・マックスウェルの生い立ちはドラマチックだった。ジェフリー・アーチャーの『ケインとアベル』の主人公さながらに、刻苦勉励と激動のビジネス人生を歩んで、一代で英国にマスコミ王国を築いていった。マックスウェルという男の魅力はいろいろある。英語、ドイツ語、チェコ語、ハンガリー語、フランス語、ロシア語、ポルトガル語、ブルガリア語、ルーマニア語、セルビア・クロアチア語等をマスターしている語学の天才という側面もその一つ。後に(1988年)、マックスウェル・コミュニケーションズが語学で有名なベルリッツを買収(経営権取得)したが、マックスウェルの語学に対する情熱を見ると頷ける。またマックスウェルは、見るからに巨漢である。声も大きい。その外見が相手を圧倒する。まさに「ブロック・バスター」であり、実に魅力ある人物だった。

 

・マックスウェルは1923年、現在ソ連領になっている中部ヨーロッパ屈指の寒村ルテニア地方で生まれた。両親ともにユダヤ人。9人兄弟の第3子だった。ここから9歳の時、チェコスロバキアのブラチスラバにあったユダヤ教の神学校に送られた。16歳の時、神学校を抜け出し、チェコの抵抗運動に加わる。その後、ユーゴスラビア、ブルガリア、ギリシア、トルコ、シリアを経由し、レバノンのベイルートに出て、フランス外人部隊指揮下のチェコ部隊に入る。この後、マルセイユ、ジブラルタル海峡を通って英国に渡る。敵を恐れぬ猛烈果敢な行動で、英国軍最高の栄誉とされる「戦功章」を授与された。

 

・話は紆余曲折するが、現在メディア王と言えば、オーストラリア出身のルパート・マードックであるが、1970から90年まで20年以上に渡り、世界のメディア王と言えばマックスウェルであった。僕が刊行した翻訳書には書かれていないが、なんと最終的にマックスウェルは1991年に「怪死」している。そのニュースを聞いて、僕は茫然自失した。

 

・マックスウェルは、新聞『デイリー・ミラー』の経営から、ヨーロッパのどの地域でもどの言語でも読める雑誌『ザ・ヨーロピアン』の発行、世界最大の翻訳出版社「シュプリンガー・フェアラーク社」の経営まで、文字通りメディア王として世界に君臨した。そしてヨーロッパの統一、EUをメディア面で先取りしていた。そのメディア王マックスウェルの死には、不可解な部分が多々あった。自分のクルーザーから「転落して溺死」したことになっていたが、クルーザーの手すりを越えて「滑って海中に転落する」というのは、通常あり得ないと英国の新聞なども報道した。

・マックスウェルは、自身、活躍した英国よりイスラエルで国葬された。イスラエル国家のために「大きく貢献した」という理由だった。ルーマニア出身のマックスウェルは、かつて共産主義思想を信奉していたフシがあり、共産主義ルーマニア国家の大統領チャウシェスク、ソ連のフルシチョフ、ブレジネフ、ゴルバチョフと言った歴代首脳とも親交があった。マクスウェルの死後、彼のビジネス上の問題の多いやり方や活動などが暴露されるところとなった。彼は何億ポンドもの自社の年金基金を、グループ内の借入金返済や狂ったような企業買収、自らの豪華な生活のために使っていた。こうした行為のためグループの従業員らは年金をほぼ失っている……全部、派手な生活を送った彼の死後、明らかになったことである。大金持ちと言われたが、その実、破綻状態に陥っていたことが分かった。

 ・だがマックスウェルは、ジェフリー・アーチャーの『ケインとアベル』の主人公のように、劇的な人生を送った男である。僕はマックスウェルとマードックを絡め二人のメディア覇権、マスコミ王争奪戦をわが手で単行本にしたいと真剣に思った。作者はもちろんジェフリー・アーチャーに頼みたいと思った。だが、ジェフリー・アーチャーの作品は、『百万ドルをとり返せ!』(1977年)の処女作以来、ことごとく永井淳訳で新潮文庫刊だった。僕は1990年にこの企画を思いついたが、永井淳さんは角川書店編集者を経て、超売れっ子の翻訳家となっていた。アーサー・ヘイリー、スティーヴン・キング、ジェフリー・アーチャーなどのビッグ・タイトルを独占的に抱えてもいた。永井さんに何回も接触を図ったが断られた。そのうち僕が会社を辞めることになり(1991年)、最終的に清流出版という出版社を立ち上げたのでその野望に終止符を打った。

・そしてなんと、ジェフリー・アーチャーが『メディア買収の野望』という題名で、僕の狙い通りのストーリーを発表した。僕が企画を立てた1990年から、6年が経っていた。すぐ永井淳訳の新潮文庫を買って読んだ。僕はすべてを納得し、自分が創刊したばかりの女性誌の製作に邁進した。月刊『清流』創刊2年目のことである。

福田恆存生誕百年記念公演を観る

清流出版 (2011年12月 9日 16:39) | コメント(0) | トラックバック(0)

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演出家・福田逸(はやる)さん(右)と車椅子に乗った僕。福田逸さんは、福田恆存氏の次男で演出家・翻訳家、明治大学商学部教授、財団法人「現代演劇協会」理事長でもある。勝呂伸子さん(福田恆存氏の実妹)からのご案内で、一夜、僕は福田恆存のお芝居を観て大いに楽しんだ。


・今年9月の本欄に昨年お亡くなりになった勝呂忠さん(画家にして、舞台美術家、装幀家、大学教授)のことを書いた。勝呂さんの奥様の伸子さんが、僕が把握していなかった「福田恆存生誕百年記念公演」の開催日時を知らせてくださった。かつて日本の有名なイデオローグであり、評論家、翻訳家、劇作家として活躍した福田恆存氏の芝居を観る絶好のチャンスである。弊社の藤木健太郎君と臼井雅観君を誘って出かけた。 

・東京都豊島区南池袋にあるシアターグリーンでの「福田恆存生誕百年記念公演」は、『一族再會』と『堅壘奪取』の二本立て。マチネーとソワレーの2部構成だったが、われわれ3人のスケジュールからしてソワレーしか観られない。そんなわけで、金曜日の午後7時からの、『堅壘奪取』(初演は昭和25年 文学座アトリエ)を観た。演出は福田逸さんである。父君の作品を演出したのは初めてだという。勝呂伸子さんとの関係は、叔母と甥の関係になる。

・ここで簡単に、福田逸さんの略歴を紹介しておきたい。1948年、神奈川県生まれ。1973年、上智大学大学院文学研究科英文学専攻修士課程修了。父君・福田恆存の演劇活動を受け継いで、シェイクスピア劇を中心とした演出家となる。ウィキペディアに拠れば、福田恆存氏等が結成した「劇団雲」を経て、その流れを汲む「劇団昴」で『ジュリアス・シーザー』、『マクベス』、『リチャード三世』、『ハムレット』などシェイクスピア作品、その他に、『ウィンズロー・ボーイ』、『谷間の歌』、『マレーネ』などの演出を手掛け、さらに、『西郷隆盛』、『武田信玄』、『お国と五平』、『道元の月』など新作歌舞伎も手掛けるという異才ぶり。

・『堅壘奪取』(けんるいだっしゅ)という劇の登場人物は三名。高名な宗教家であり、社会評論家であり、第一線のジャーナリストでもある主人(金子由之)の自宅に、ある日、一人の青年(奥田隆仁)が訪ねてくる。気が触れているのか、はたまたどこまでが正気なのか、とにかくその青年は風呂敷包みに千枚にもなんなんとする自作の原稿を前に、奇怪な持論・珍論をまくしたてる。主人の困惑をよそに、一向に帰る気配を見せない。困り切った主人は、なんとか帰ってもらいたいと負けず劣らず迷論を開陳。ついには、我を忘れて青年との意味不明の激論に没入していく。「音と光のエネルギーの決着をつけろ」という迷台詞も飛び出す有様。茶を入れ替えるため応接に入ってきた奥さん(茂在眞由美)は、意味不明の掛け合いに戸惑いを隠せない……というストーリーである。
    
・初演後61年経った戯曲だが、古さをまったく感じない。驚くべきことだが、現代の世相と相通じる芝居である。福田恆存氏は1980年10月、劇団昴公演パンフレットで自作『堅壘奪取』について「あなたはだまされていませんか……自分に?」という人間観が主題の一つであると解説された。演劇活動だけでなく、政治、社会、教育問題、全てについて人間の生き方、人生論に於いても通じる、大袈裟に言うと、ソクラテスの「汝自身を知れ」ということになるとも述べておられる。

・福田逸さんは父君・福田恆存の本質をきちんととらえている。よく福田作品で言われるような「自己欺瞞」ではなく、単に人は時として馬鹿をやってしまう、そんなおかしさを演劇エンターメントとして演出しようとしている。笑わせてなんぼ、楽しませてなんぼの世界を十分に味わわせてくれる。このお芝居を観て、パンフレットの「特集INTERVIEW」にある「僕にあるのは冗談が好きな、ひょうきんな父親像。そんな父が自分の実体験を茶化した作品だから、とにかく面白く、おかしい舞台にしたい」との演出意図は達成されていたように思う。

・この「福田恆存生誕百年記念公演」パンフレットに、評論家・エッセイストの坪内祐三さんが寄稿されている。「三百人劇場の稽古場で私が見たもの」と題して、福田恆存氏とのお付き合いの経緯が書かれていた。そういえば坪内祐三さんは早稲田大学文学部を卒業されたが、卒業論文は「福田恆存論」だったそうだ。坪内さんは福田恆存氏に1979(昭和54)年、個人的な面識を得たとのこと。その後、お付き合いを経て卒論を書き始める。ちなみに坪内祐三さんの父親は、僕がかつて勤めていたダイヤモンド社の元社長、会長の坪内嘉雄さんだ。坪内祐三さんの卒論の指導教授は松原正教授である。当時、松原先生は、福田恆存氏の一番弟子を自負されておられた。そして、僕は松原先生の単行本を前の出版社で一冊出させてもらった。書名は『道義不在の時代』(昭和56年 ダイヤモンド社刊)である。

・松原正先生はその「あとがき」に――「敬愛する京都大學教授勝田吉太郎氏の好意、及びダイヤモンド社の加登屋陽一氏の盡力無しに本書の上梓はありえなかつた。兩氏に深く御禮を申し述べる。本書が歴史的假名づかひのまま世に出る事を私は大層喜んでゐるが、それは加登屋氏の識見に負ふところ大なのである。また、私は龍野忠久氏の校正の見事に感服した。加登屋、龍野兩氏の助力が報いられるやう、すなはち本書の出版によつてダイヤモンド社が大損せぬやう、私は祈らずにゐられない。」――と、書いてくれた。
僕はすっかり忘れていたが、坪内祐三さん(常盤新平さんによると天才・坪内祐三氏)のお陰で、松原先生の「あとがき」で、龍野忠久さんに歴史的假名づかひの校正をしてもらったことを思い出した。かつてその龍野さんから紹介されて勝呂忠さんの知遇を得た。その奥様・伸子さんが甥っ子の福田逸さんを紹介してくれた。その前に、龍野忠久さん夫妻を仲人として結婚した僕の親友・長島秀吉君が存在する。長島君亡き後、奥さんの長島玲子さんが勝呂伸子さんと僕とのパイプ役を務めてくれた。こうして人と人は知り合い、輪は広がってゆく。僕にとってこうした人間関係の連環は、なんとも不可思議で面白いものだと感じ入っている。

「清水邦夫の劇世界を探る」を観る

清流出版 (2011年12月 8日 16:45) | コメント(0) | トラックバック(0)

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劇作家・清水邦夫さん(右)は、素晴らしい人物で、作品も極めてユニークだ。うれしいことに清水さんと僕は、ある所で毎週、親しくお付き合いする仲である。


・「福田恆存生誕百年記念公演」のお芝居を観た翌週、今度は、現代劇の異才・清水邦夫さんの劇を観るチャンスが訪れた。今年は清水さんの作品が頻繁に上演された。『血の婚礼』、『あなた自身のためのレッスン』、『署名人』等がそうだが、僕は最後にあげた『署名人』を観た。その約一ヵ月前、新聞に多摩美術大学と世田谷文学館の共同研究で『清水邦夫の劇世界を探る』を講演するという告知がなされた。僕はすぐに応募して、抽選の結果運よく当たった。

・その共同研究の幹事役・庄山晃さん(多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科准教授)がパンフレットにこの経緯を書いている。「そもそも共同研究を立ち上げる発端は、演出家の蜷川幸雄氏が昨年、文化勲章を受章された慶事にちなむ。蜷川氏が演出家として衝撃的なデビューを果たしたのは、群衆が長い行列を舞台に連ねている清水邦夫作の戯曲『真情あふるる軽薄さ』であった。それ以後、二人はコンビで車の両輪の如くエネルギッシュに数々の話題作を世に問うてきた。(略)清水邦夫氏は平成6年から平成19年に定年退職されるまで本学の教授を勤められ、在職中には『イエスタデー』、『草の駅』、『破れた魂に侵入』の3篇を卒業公演に書き下ろして下さった。」と語る。

・ここでちょっと脱線する。最近号(2012年1月号)の月刊『清流』だが、「著者に聞く」欄で『蜷川ファミリー』(朝日新聞出版刊)について、ライターの浅野祐子さんが著者・蜷川宏子さんに会って、インタビューしてくれた。この記事で、宏子さんが「私はこれまで『演出家の蜷川幸雄さんの奥様ですか』と声をかけられることが多かったのですが、近頃は若い人から『写真家の蜷川実花ちゃんのお母さんですか』と言われることのほうが増えました……」。そのあとにも面白い文章が続く。この記事を詳しく読みたいという方は、ぜひ月刊『清流』(定価700円)を買って読んでください。

・共同研究の『清水邦夫の劇世界を探る』の第1部は、『署名人』の劇である。これは、清水さんが21歳(1958年)のときの作品だ。早稲田大学三年生の時、夏に実家(新潟県新井市)に帰省した。家の2階で、生水をガブ飲みしながら、腹這いになって書き上げたと伝えられる衝撃的な処女作である。清水さんは幼少から絵画が大好きで最初、文学部美術科に入った。だが、早稲田大学在学中、長兄が学生劇団を主宰していたこともあり、その影響を受け、文学部演劇科に転科した。その転科に際し書いたのが『署名人』である。この作品は雑誌『早稲田演劇』、『テアトロ』と次々に掲載され、倉橋健氏、安部公房氏らの知遇を得る切っ掛けとなった。

・署名人とは、今日、一般的には分からない概念である。新聞雑誌の署名を、大金を受け取って肩代わりし、讒謗律(ざんぼうりつ)に引っかかった場合、監獄に入るのが仕事である。当時、憂国の志士たちは新聞雑誌に政府批判の論文を書いたとしても、発表など一切許されなかった。そこで、論文執筆者の身代わりとなっての入獄を稼業とする便利屋、つまり署名人という下賤なやからが出てくる。讒謗律とは明治8(1875)年、新聞紙条例と共に明治政府によって公布された言論規制法令のこと。著作類により人を讒謗する者を罰する、つまり名誉毀損に対する処罰を定めた法律である。その狙いは自由民権運動などの政府批判の抑圧であった。清水さんは明治時代の歴史を勉強され、その存在をストーリーにしようと、一気に書き上げた。

『署名人』の舞台は明治17年代の国事犯官房の一室。理想の立憲政体を実現しようと自由民権運動に身を捧げた憂国の志士、赤井某(酒向芳)と松田某(平野正人)が舞台に登場する。彼らの権力者暗殺計画は事前に露見し、国事犯として収監されていた。そこに署名人・井崎某(大島宇三郎)が入牢してきたとこらから3人の間に波紋が広がってゆく。やがて命を懸けた激しい葛藤が生まれる。この3人と、典獄(監獄の事務を司る職)の獄吏(囚人を取り扱う役人)2名(田山仁、増田雄)計5名が全登場人物だ。そして、獄吏の猫が木に登って降りられないという事件が起き、それにからんで、2人の脱獄の目的が明らかになってゆく……。

・この劇における個々の人物設定、対立する人間関係、舞台設定、事件の発生と結果、登場人物の心理描写などが見事で、重厚感さえ漂っている。実によくできた芝居であり、これが大学3年生、21歳での処女作とは本当に驚いた。

・『署名人』を観劇した後、共同研究『清水邦夫の劇世界を探る』の記念公演第1弾として、演劇研究者・井上理恵さんの『署名人から始まる清水戯曲の魅力について』を聴かせてもらった。この講演がなかなかよかった。井上さんは、『久保栄の世界』、『近代演劇の扉をあける』、『菊田一夫の仕事』(いずれも社会評論社刊)など精力的に執筆活動をするほか、桐朋短大、白百合女子大などで教壇にも立つ。演劇学会副会長の要職にもある方だ。

・その井上さんの講演を聴いて、「清水戯曲の魅力」がよく分かった。僕はメモを取れないので、覚え間違いもあるかと思うが要点をまとめておきたい。清水作品はまず「タイトル」が斬新。今までの戯曲とは全然違うことに注目したいという。僕も以前からタイトルにインパクトの強さを感じていた。例えば『狂人なおもて往生をとぐ』(1969年)、『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』(1971年)、『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』(1975年)、『わが魂は輝く水なり』(1980年)、『昨日はもっと美しかった』(1982年)、『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』(1982年)、『救いの猫ロリータはいま……』(1985年)、『オフィーリア幻想』(1998年)、『ライフ・ライン(破れた魂に侵入)』(2000年)、『真情あふるる軽薄さ2001』(2001年)……。どのタイトルをとっても、実にユニーク。

・井上理恵さんの講演は1時間ほどだったが、いくつかの解説が耳に残る。例えば、清水邦夫さんが、長兄からシェイクスピアとチェーホフの作品を読めと言われ、この2人から劇作術を学んでいる。また、清水作品の底流には『アリストテレス・詩学』が存在している。そして、『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』(1975年)までが活躍の場は新宿であったが、労演(勤労者演劇協議会)が衰退していくと同時に脱新宿路線を歩まざるを得なかった。世は寺山修司や唐十郎人気に沸いていた。路線変更には塗炭の苦しみを味わった。しかし、結果的に独自路線を切り拓くことになり努力は報われたのである。特に印象深いのは、「殺(ころ)す=将門」のテーマがギリシャ悲劇を意識したということ。僕はこの解説を聴いて、全然違うことを考えていた。ギリシャ悲劇の重要な役目の「コロス」のことだ。能のワキ的な観客の代表としてコロスが存在する……等、井上さんの話に触発され、次々連想が閃いた。

・清水邦夫さんは、大学を出てすぐ岩波映画社に入社。同期だった田原総一朗(2歳年上)さんと知り合う。その結果、二人は共同監督で『愛よよみがえれ』(1967年)という映画を製作した。今、その時のシナリオ『愛よよみがえれ』(栄光社刊)がなんと29,800円以上の高値がついている。僕も読みたいのはやまやまだが、この値段では手も出ない。
 今週号(2011.12.15)の『週刊文春』に、興味ある記事が出ている。田原総一朗さんのコラム「Close Up」で、1971年に監督した唯一の劇場映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』が、製作から40年の時を経て初のDVD化がなった。その作品は清水邦夫と共同で脚本・監督したATG作品だという。『週刊文春』には、「幻の監督映画が初DVD化」のタイトルがあった。その作品の4年前(1967年)に製作された『愛はよみがえれ』を僕は観たい。これこそ幻の映画であり脚本であろう。

・それはそれとして、清水邦夫さんは、過去、多くの演劇・文学の賞をお取りになった。主だった賞だけを挙げる。「岸田國士戯曲賞」(1974年)、「紀伊國屋演劇賞個人賞」(1976年)、「芸術選奨文部大臣新人賞」(1980年)、「泉鏡花文学賞」(1980年 『わが魂は輝く水なり』)、「読売文学賞」(1983年)、「テアトロ演劇賞」(1990年)、「芸術選奨文部大臣賞<演劇部門>」(1990年)、「芸術選奨文部大臣賞<文学部門>」(1993年)……それから、2002年には「紫綬褒章」を受章。芥川賞候補にも三度ノミネートされている。

こういう素晴らしい方と親しく付き合って、例えば世田谷美術館を訪ね、名画を観たり、美味しいフランス料理を食べて過ごすのが僕の至福の時である。

ガストン・レビュファとモンブラン

清流出版 (2011年11月11日 12:41)

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ガストン・レビュファ――伝説的な登山家、山岳の名ガイド。山岳文学を著し、「山の詩人」と呼ばれた。生涯1,000回以上、モンブランを登ったフランス人。

 

 

・モンブラン――アルピニストが一度は挑戦したい山である。ヨーロッパ・アルプスの最高峰で、標高約4810m。モンブラン(「白い山」の意味)、フランス語ではMont Blanc(モン・ブラン) イタリア語ではMonte Bianco(モンテ・ビアンコ)。別に「白い貴婦人」を意味するLa Dame Blanche(ラ・ダーム・ブランシュ)というフランス語の異名もある。   

 53年前、大学のワンダーホーゲル部の練習(もっぱら自分と先輩の重いリュックも持たされてグラウンドを走る)が辛くて1年で部を辞めてしまった僕に、登山を語る資格はない。その代わりといってはなんだが、山岳写真を楽しむことにしている。

 それにしても「モンブラン」の名称は、多くの品々で使われている。例えば美味しいケーキのモンブランを筆頭に、モンブラン万年筆、モンブランボールペン、モンブランオーガナイザーシステム手帳(丸善で5万円以上した)など、僕の生活エリアにモンブランの名を冠した物は多い。

 

・肝心の山岳のモンブランの話に戻そう。モンブランは、仏伊の国境に位置している。山頂が仏伊のどちらの国に属するかが、つねに論議の対象になっていると訊く1957年から1965年にかけて、フランスのシャモニーとイタリアのクールマイユールの二つの町を結ぶ全長約12kmのモンブラン・トンネルの掘削が行なわれ、アルプス越えの主要ルートの一つとなった。僕の1969年から1970年のフランス滞在中、友人にモンブランを臨むシャモニーに誘われたことがあったが、残念ながら忙しくて断った。

 だが、モンブランには少々思い出がある。僕は、今年117日、NHK-BSテレビの画面でモンブランにまつわる懐かしい人が出ているのを見た。記憶に残る今、書き留めておかなければと思った。今をさかのぼる45年前、僕が26歳の若造だった頃のことである。

 

・その人はフランス人のアルピニスト、ガストン・レビュファである。1921年マルセーユの生まれで、1985年にパリで逝去した。生涯1,000回以上、モンブランを登った伝説的な登山家で、山岳の名ガイドである。山岳文学を著し、「山の詩人」と謳われた。

 NHK-BSテレビの伝えた番組は、そのガストン・レビュファの姿を、活き活きと映し出した。当時(1966年)のことがまざまざと思い起こされて、思わず涙が出そうになった。レビュファは、その日、東京港区の虎ノ門ホールで、「近代スポーツ アルピニズム」のテーマで講演をしたのである。数々の山々の写真、登攀技術、ピッケル、アイゼンなど登山用具類、自らの体験……を交え、満場の観客も真剣に聞き惚れる素晴らしい内容だった。

 講演終了後、当方の取材を受けてもらった。僕が以前勤務していた出版社が請け負っていたJTBのPR誌『パスポート』の取材であった。当時、僕は別の編集部にいたが、しばしば友軍記者として『パスポート』の取材を頼まれていた。この話は、約300名の社員の中でもアルピニストとして有名な、田中義朗さん(通称デンさん)が、いち早く来日をキャッチし、『パスポート』編集部に伝えたことに端を発する。田中さんの所属は確か印刷事業部だった。当時、『パスポート』編集部にはアルバイトながら荒木弥栄子、天野和美という2人の有能な女性編集者がいて、編集活動をされていた。即断即決でいい企画を先取りして掲載していたが、レビュファのケースがまさにこれだった。

 

・早速、レビュファを取材するためのアポをとり、僕が記事を書く段取りになった。その際、通訳を引き受けてくれたのが、今井通子さんだった。今井さんは、当時、まだ23歳位で、東京女子医科大学泌尿器科(医学博士)を卒業し、翌年のマッターホルン登攀を目指していた。今井さんは美しい方で、しかもフランス語を流暢に話すアルピニストだった。その後、女性としては難しいと思われた、マッターホルン、アイガー、グランドジョラスの三大北壁登攀に成功してその名をとどろかすことになる。律儀な方で、45年経った今でも、僕のところに毎年、(株)ル・ベルソー(今井通子事務所)特製のカレンダーを届けてくれる。

『パスポート』編集部の企画として、他にも忘れられない企画がある。オーストリア出身の“黒い稲妻”の異名をとった天才スキーヤー、トニー・ザイラーの取材である。この取材で通訳をお願いしたのが鰐淵晴子さんだった。彼女が、ドイツ語を自在に駆使して、トニー・ザイラーの本音を引き出してくれた。楽しい思い出である。

 

・ガストン・レビュファに話を戻す。取材することになったので、すぐに参考資料として彼の著書を買いに行った。その時、虎ノ門書房にあったのは、『モン・ブランからヒマラヤへ』と『天と地の間に』の2冊だけ。後で調べてみると、その時点で、レビュファが書いた本は5冊出ていたが、翻訳はことごとく近藤等さんであった。

 当日、虎ノ門ホールのレビュファの講演会でも、近藤さんが挨拶したが、そもそもレビュファを呼び、著書を宣伝するというプランは、近藤さんのアイデアの賜物だったらしい。レビュファと近藤さんは、期せずして1921年生まれで同年齢だった。近藤さんの略歴をざっと触れておこう。早稲田大学文学部仏文科卒。早大商学部助教授、教授、名誉教授を歴任した。ヨーロッパ・アルプスの名だたる120余峰に登頂。シャモニー名誉市民、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章受章、1998年、日本山岳会名誉会員。

 近藤さんはその後も、ガストン・レビュファの本を訳出し、都合15冊にも及んだ。その上、レビュファのDVDを監修、翻訳され、われわれ山岳ファンの期待に応えてくれた。近藤さんという存在がなければ、レビュファの印象も違っていたかもしれない。僕の勝手につけたレビュファの本ベスト3は、『氷・雪・岩』、『星にのばされたザイル』、『星と嵐――6つの北壁登行』である。この内、最後にあげた本は、1955年に白水社から、1987年に新版が出、さらには新潮文庫、集英社文庫、山と渓谷社の単行本、その後ヤマケイ文庫などで再刊された。よい本は、各出版社が永遠に再刊しづつけることがわかる。

 

・また、近藤さんは『わが回想のあるアルプス』をはじめ自著も15冊、共著が6冊、翻訳書が約90冊、合わせて110冊強の堂々たる書き手だ。今思い起こすのは、ガストン・レビュファの来日で、近藤先生と親しくなって渋谷区西原のお宅に呼ばれたが、後のフォローがまずかった。当時、単行本を手掛ける出版部とは縁のない雑誌部門にいたこともあり、積極的に企画に結びつけようという発想がなかった。近藤さんの本を何冊か出したかったと今にして思う。いつ、どこでも、編集者としては出版の企画に熱心でないと、将来の芽を摘んでしまうことを学んだ。

 取材が終わって、ガストン・レビュファと握手した時、驚いたことがある。なんと大きな手だろう、そしてなんと柔らかな手だろうと思った記憶がある。そういえば、山登りで親指を下向きに持つ保持法を「ガストン」というのはガストン・レビュファの名前に由来するという。その魔法の手の感触を、今もって忘れられない。

沖縄旅行

清流出版 (2011年10月14日 12:18) | コメント(0) | トラックバック(0)

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「ひめゆりの塔」の前で。悲しい沖縄史の象徴。僕も献花した。

 

・わが社から沖縄に関する本は、社歴18年になるが一冊しか出ていない。『かんたん、男の沖縄料理』(料理制作・監修「抱瓶(だちびん)」料理長 神谷八郎著、20093月刊、定価1470円)がそれ。残念ながら、初版のまま増刷にもなっていない。このままでは、仕掛けに乗った僕の名が廃れる。なんとか沖縄企画でいい本を出したいとの思いがあった。

 一方、沖縄に一度は行きたいと思いつつも無理と諦めていた。長時間、飛行機に乗るのは医者に制限されている。脳出血の身には、急な気圧の変化はタブーなのだ。それでも意を決し、バリアフリー・ツアーに申し込んだ。結果的に、なにごともなく無事沖縄旅行をしてきた。主だった観光スポットを訪ねるには、二泊三日では強行スケジュールだったが、なんとか楽しんでこられた。行ってみて改めて、沖縄問題の根深さを肌で感じ取れた。

 東日本大震災の被災地となった東北地方同様、天災・人災をモロに受けてしまうと容易に立ち直れない状況が続く。わけても沖縄は、第二次世界大戦の爪痕が、66年経った今もまざまざと残る。日米安保関係の改善のためには、焦眉の急ともいうべき基地問題もまだ決着をみていない。その上、遠く歴史を遡れば、日本史の「琉球以来の問題」もある。

 沖縄の歴史を辿ることから始まって、実生活(衣食住)、伝統芸能など……駆け足ではあったが、接することで理解を深めることができた。実際の現場を見てつくづくよかったと思う。僕の沖縄観は、行く前と後で大きく違ってきたことを正直に言っておこう。

 

・絶対に見ておきたいと思ったのは、都合三か所。一番目が「首里城公園」である。「めんそーれ(沖縄の方言で「いらっしゃいませ」)首里城!」と呼び込まれた。2000年に世界文化遺産に登録された首里城公園では、琉球王国の栄華を物語る数々の歴史的な建造物を目の当たりにできた。守礼門から入り、園比屋武御嶽石門(世界遺産)を通り、凝った命名をされたいくつかの門をくぐり、南殿・番所、書院・鎖之間、庭園、正殿、北殿と順路に沿って回る。自然、華やかなりし琉球王朝時代に想いを馳せた。

 

・二か所目は、「ひめゆり平和祈念資料館」。入口の「ひめゆりの塔」を見ただけで、込みあげてくるものがあり目が潤んでしまう。資料館に入ると、大勢の見学者で込み合っていた。ひめゆり学徒隊、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校生徒たちの悲惨な姿が目に染みる。結局、陸軍病院に動員されたひめゆり学徒隊は240人(生徒222名、教師18名)、うち死者136人(生徒123名、教師13名)、陸軍病院動員以外の死者91人(生徒88名、教師3名)、残った生存者104人(生徒99名、教師5名)。沖縄戦で亡くなった女師・一高女の生徒・教師は227人(生徒211名、教師16名)にものぼる。こうした多くの前途有為な女性たちが、戦争の犠牲者として散っていった。我々平和ボケしている現代人は、ひめゆりの塔を前にすると、言葉もない。

 

・三か所目は、「沖縄県平和祈念資料館」。この資料館は、20004月、旧資料館を移転改築し、開館されたもの。広大な敷地を持ち、延べ面積で約10倍、展示面積で約5倍に拡張されたという。「平和の礎」――沖縄戦などで亡くなられた国内外の20万人余のすべての人々に追悼の意を表し、御霊を慰めるとともに、今日、平和を享受できる幸せと平和の尊さを再認識し、世界の恒久平和を祈念する。こうパンフレットに書かれているように、平和を発信する重要拠点としての役割を担う資料館である。

 最初に「平和の火」を見て、「平和の礎」に移る。20万人余もの膨大な名前の中から、妻の叔父を見つけることにする。数年前、妻は二人の姉と共にここへ来ている。それでも簡単には見つけられない。長野県から探すことにした。丹念にあいうえおを辿って行く。妻が「ありました」と声をあげた。名前の前で二人は合掌した。

 その後、資料館を1時間ぐらい見るうち、僕は検索装置を発見した。その機械だと、戦死した人の出身地・名前等を入力すると、大きな「平和の礎」の中から、なんと当該部分が出力される仕掛けになっている。これだと20万余の中から容易に目的の人物に辿り着ける。今度、機会があったら、これを使わせてもらうことにしよう。

 

・番外のお勧めとして「おきなわ文化王国・玉泉洞ワールド」を挙げておきたい。王国歴史博物館、全長5kmの玉泉洞(珊瑚礁からでき、30万年をかけてできた鍾乳洞)、琉球ガラス王国工房、陶器工房、紅型工房、藍染工房、紙すき工房、機織り工房等があり、どこを見ても魅力的だ。僕が一番気に入った場所は、「エイサー広場」だった。エイサーは、旧盆の頃、沖縄諸島で踊られる伝統芸能。大小の太鼓を持ち、若者たちが歌とお囃子に合わせ、踊りながら練り歩く。若い男女が、夢中になって踊る様を見て、53年前、学生時代に石川県輪島で御陣乗太鼓(ごじんじょだいこ)を見たことを思い出した。太鼓のリズムが身体に響いてきて、その時以来の興奮を覚えた。

 エイサーにはストーリーがある。途中、翁と姥が出てきて、やおら数百人の観客の中からあろうことか僕に向かって、瓢箪から酒を浴びせた。すると、そこに大きな獅子が現われ、僕をガブりと頭から食べる仕草をした。あっという間の出来事だった。お客さんは、意外な展開にヤンヤの喝采と拍手。僕は身障者なので一番前にいた。運悪く(人によっては運が良く)、一番前に座っていたことによる悲喜劇だった。

それア・太平洋戦争の末期、日米両軍は沖縄で住巻

・そもそも沖縄を意識したのは、中学時代に遡る。石垣島から努力家の石垣信浩君が転校してきたのだ。たまたま僕の後ろの席だったことから、親しく接するうち沖縄に興味が湧いてきたのだ。石垣君のお父さんは、郵便局の局長さんだったらしい。「ぜひ一度、石垣島に遊びにおいでよ」、との当時の会話が懐かしくよみがえった。その後、石垣君は早稲田大学文学部史学科を出て、現在は大東文化大学名誉教授。西ドイツ留学を経験し、僕も頂いた労作『ドイツ鉱業政策史の研究―ルール炭鉱業における国家とブルジョワジー』を著している。

 僕の浅薄な知識で言うと、沖縄と言ってすぐ頭に浮かぶのは、「泡盛」と「豚の角煮」、「ゴーヤ・チャンプル」といったところ。また、歌に独特の雰囲気があり、沖縄出身歌手は歌唱力が凄いという印象がある。安室奈美恵、古くは喜納昌吉がいる。夏川りみの「涙そうそう」「花」等、何度聴いてもいい。それに仲間由紀恵、新垣結衣、黒木メイサといった個性的な美人女優。宮里藍、宮里美香、上原彩子以下、天才プロゴルファーも多く輩出している。

 少し硬い話をすると、僕が沖縄を強く意識したのは、50年前に何気なしに本を読んで、ある人を知ってからだ。意識を変えたその人の名は、沖縄自由民権運動の父と称される謝花昇(じゃはな・のぼる)である。残念ながら、今は忘れられて話題にもならない人だ。

 ウィキリークスを借りて言えば、慶應元(1865)年生まれ、明治411908)年に没している。東京帝国大學農科大學を卒業した、沖縄県初の学士だった。この人が、大學時代に中江兆民に師事し、木下尚江や幸徳秋水らと自由民権運動に触れる。大學卒業後、沖縄県技師となり、同時に様々な役職を兼務し、県政改革に献身尽力した。その後、紆余曲折があり、旧支配者層に妨害を受け、挫折することになる。

 明治34年、生活に困窮したことから、職を求めて山口県へ向かう途中、なんと神戸駅で発狂した。以来、廃人状態に陥り、明治41年、44歳の若さで亡くなった。この謝花昇の生涯を多感な頃に知って、僕は激しい憤りを感じた。

 その後、「戯曲 謝花昇伝」の素晴らしい舞台を見て、ますます沖縄に強く関心を抱いた。そういった意味で、今回の沖縄旅行は、青春時代にし残した宿題に改めて取り組み、心の中で切を付けた充実感がある。

 

・たまたまホテルで新聞を読んでいて、ある記事が目についた。「沖縄タイムス」20111010日(月)のコラム「大弦小弦」(筆者・平良哲)には、こう書かれていた。

「戦争は酷(むご)く愚かな行為だ。中でも悲惨で卑劣なのは空襲だろう。武器をもたぬ民間人が犠牲になり、地域に根を下ろした暮らしが無差別に破壊されていくのだから▼67年前のきょう、多くの県民が逃げ惑い、命を落とした。戦闘機のごう音や爆弾の落下音が、空を切り裂く。生まれ育った家を焼かれ、防空壕で爆撃音に耐える。その恐怖は想像を絶する」、(中略)、「壮絶な体験から数十年たって症状が現れることが多いようだ。いつまでも人の心に巣くう戦の本当の怖さが見て取れる。沖縄戦は過去のものでない。なお現在進行形で、多くの人を苛む実情を心に刻みたい」――。

 調べてみると、この筆者は、僕と同じ早稲田大学第一政治経済学部出身で三歳年上とのこと。今は(財)沖縄観光コンベンションビューロー会長、その前は那覇空港ビルディング(株)代表取締役社長であった。

 その平良哲さんは、別の記事で――、

 作家吉村昭さんは著書「三陸海岸大津波」の中で、三陸の魅力に触れている。屹立(きつりつ)した断崖(だんがい)や海の色をたたえた淵(ふち)、海岸線につらねる漁師の家々が「まぎれもない海の光景として映じる」とある》 (中略) 

 東日本大震災では海岸線から10キロ以内、標高30メートル以下の地域が津波で浸水した。その条件に照らすと、沖縄は面積が1200平方キロに及ぶ。県土全体の半分以上、県人口の54%に当たる75万人余が暮らすと国交省は分析する。標高20メートル以下で約50万人、10メートル以下は28万人以上が居住するという空港が被災した時の島々の困窮は想像に難くない。しばらくは物資が届かず救援の手が行き渡らないこともあろう。孤立することを想定して県や島ぐるみの支え合いが必要だ》と書いている。

 沖縄と東日本――その対比・類似を、このように明らかにしたコラムは、心に深く染み入った。貴重な僕の沖縄土産ともなっている。 

 

 

 

勝呂忠さん 野見山暁治さん 新井苑子さん

清流出版 (2011年9月 9日 13:04)

●勝呂忠さん

 

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勝呂忠さん。20103月逝去。享年83。洋画家、舞台美術家のほか、早川書房の通称「ポケミス」の表紙絵を長く手掛けたことで有名。

 

 

 

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写真上の本:勝呂忠さんの「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」シリーズが講談社出版文化賞受賞をしたことを報じた『ミステリマガジン』20118月号のページ。写真右は、勝呂伸子さん(勝呂忠氏夫人=福田恆存氏の実妹)。

 

写真下の本:追悼・勝呂忠 誌上ギャラリー。「エラリイ・クイーンズ・ミステリ」の表紙イラストを創刊号から、同じく「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」の装画を二十代後半から約60年間、20103月に亡くなるまで1730冊余り描き続けた。多くのファンを楽しませたことを報じる『ミステリマガジン』20107月号のページ。

 

・今回は、勝呂忠さん、野見山暁治さん、新井苑子さんの三人(いずれも画家)を取り上げてみたい。この原稿を書く直前まで、僕は夏風邪を引き、咳痰熱が出て約2週間ほど寝込み、これで僕は終わりかなというほどの衰弱状態にあった。やっと立ち直れることができたのは、この三人の画家のお陰であったと信じている。

 

・まず、洋画家で舞台美術家の勝呂忠(すぐろ・ただし)さんである。このブログにしばしば登場している大学時代の先輩で、僕の敬愛する龍野忠久さん(主に河出書房新社、講談社、新潮社などで活躍された校閲の専門家。1993年秋に肺がんで逝去)に紹介されたのがお付き合いの始まり。温厚な人柄の奥に、鋭い感性と創作意欲を秘めている方で、絵も装幀もモダンで斬新なものだった。ざっと計算してみると今から53年も前のことである。

 龍野さんから、勝呂さんの奥様伸子さんは、有名なイデオローグ福田恆存氏の妹さんだと聞いていた。福田恆存氏といえばいわずと知れた、評論家、翻訳家、劇作家として、また保守派の論客として、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲の翻訳としてもつとに知られた方だが、当時、僕は尊敬していたこともあって、福田さんの本を片っ端から読んでいた。

 その伸子さんと結婚され、お子さんを設けた勝呂さんは、僕たちが知り合った当時、鎌倉の神奈川県立近代美術館のすぐ傍に住んでいたが、間もなく、二階堂の瑞泉寺近くに引っ越しをされた。龍野忠久さん一家も、実家があった都内北区の滝野川を離れ、鎌倉に転居し、最初は妙本寺に近い場所、その後、勝呂さんの住まいから数分の場所に引っ越しをされた。後に僕は、清流出版で画家・平山郁夫さんの単行本を手掛けることになる。そこで初めて分かったのだが、平山さんのお住まいとは徒歩15分位でご近所であった。僕は平山さんの単行本取材のため、都合十回ほど、平山さんの家を訪れている。そしてほぼ同じ回数、平山さんが馴染みであった寿司屋に通ったことを懐かしく思い出した。

 

・勝呂さんはお嬢さんが生まれると、「あかね」という名前を付けた。それが、漢字で書くと朱子(あかね)さんということが分かったのは、ごく最近のことだ。それまで僕は茜(あかね)と表記するとばかり思い込んでいた。朱子さんが生まれた後、銀座の茜画廊で個展をしようかと、勝呂さんが真剣に悩まれたことがある。その朱子さんも現在、51歳になるそうだ。そのことを教えてくれた長島玲子さん(僕の親友・長島秀吉君の夫人。二人は、龍野忠久さんに仲人役を頼んで結婚した。長島秀吉君は200911月、逝去。享年68)は、夫亡き後、勝呂夫人の後見役? として、僕にお願いしたいことがあるという。「勝呂忠さんの素晴らしい絵画を、広く世の中の人々に知っていただくために、お力をお借りしたい」というのだ。

 そういわれても、僕の力などたかが知れている。特に、二回の脳出血をして以降は、言語障害で言うことも書くことも、思い通りにならない。本当は、勝呂忠さんをよく知る千代浦昌道さん(獨協大学名誉教授)や、青木外司さん(青木画廊)、菅原猛さん(色彩美術館館長)、鈴木恭代さん(ピアニスト、東京音楽大学専任講師)……等に頼めば、僕よりきっとよいアイデアを出してくれそうな気がする。しかし、長島玲子さんからのたってのお願いということなので、微力ながら僕のブログで発信し、宣伝にこれ努めようと思った次第だ。

 

・簡単に、勝呂忠さんの略歴に触れておこう。1926年、東京生まれ。50年多摩造形芸術専門学校(現多摩美術大学)を卒業。1951年、モダンアート協会創立展に招待参加。56年、第1回シェル賞展佳作。61-63年、イタリアに留学しモザイク壁画を研究する。その時、イタリア給費学生としてフィレンツェに学び、フレスコ画も勉強された。その後、多摩美術大学助教授を経て、79年、京都産業大学教授に就任。義兄・福田恆存氏が誘ったからだと思うが、教授をしながら舞台美術、装幀にも早くから手を染めている。

「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」シリーズ(通称ポケミス)の表紙画、約1730冊余りを描いている。最初の作品は、ケネス・フィアリング『孤獨な娘』(長谷川修二訳、1954年)である。勝呂さんは一連のボケミス表紙画を評価され、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)美術賞を受けている。著書に『西洋美術史提要』『近代美術の変遷史料』など。20103月、間質性肺炎のため死去、享年83

 

・龍野忠久さんによれば、日本のミステリは、日本人以外には余り馴染みがなかった。「勝呂忠さんの快挙は、米国の『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』も脱帽するぐらい装幀が素晴らしかったので、メディアとして美術賞を挙げざるを得なかった」と龍野さんは受賞理由を解説した。また最近、『ミステリマガジン』20118月号に載った、ミステリ作家の逢坂剛さんによると、「勝呂忠さんは、モダンアートの世界にこの人あり、といわれた著名な洋画家である。……若くして脚光を浴びる存在になった。……これはもうギネスものである。わたしが学生のころ、モダンな装丁のポケミスを持ち歩くことが、〈ハイブラウ〉の象徴にさえなっていた」と書いている。僕も逢坂さんの意見に大賛成だ。ひと頃は「勝呂ブーム」があり、有名な田村隆一さん(早川書房の初代編集長)との交流がものをいった。ちなみにその田村隆一さんの処女作『詩集 四千の日と夜』(東京創元社刊、1956年)も勝呂さんの装幀である。

 

・長島秀吉君は、勝呂忠さんの絵画を飾るために家を改築し、大きな壁面を設けた。勝呂さんの作品に惚れ込んだ真のコレクターであり、その所有する数十点を毎日飽かず眺めては楽しんでいた。多忙な長島君にとって、「勝呂さんの絵画は生活の潤いに欠かせない」と僕によく言ったものだ。絵画は毎日見ていて、初めて分かるとの卓見の科白である。青木画廊の青木外司さんが、「長島君はリッチマンだから」とよく言っていた。真のリッチマン、長島君の面目躍如である。

 僕は二階堂の勝呂さんのお宅には、三回くらい伺ったことがある。二階の広々としたアトリエには、描きかけの絵が何枚か置かれており、過去にご自分が装幀してきた本が全部揃っていた。瑞泉寺に近い閑静なお住まいは、仕事に集中できる絶好の環境だったに違いない。僕は勝呂さんの小さな版画を持っていて、時々眺めている。「リッチマン」ではないので、こうした勝呂ファンの一人に過ぎない。だがここまで読んでこられた方で、勝呂さんの絵に興味をもち、鑑賞したいと思う人がいたら、買うこと(所有すること)をお勧めする。勝呂伸子さんの言によると、全部で200点ぐらい那須のアトリエに眠っているそうだ。加登屋のプログを見て、興味が沸いたのでと一言言ってくれれば幸いである。この後、勝呂伸子さんのお許しを得て、絵画を1点、それも有名な黄土色の作品シリーズの絵画を、このホームページで公開することにしよう。

 

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『均衡の相(曲線)』1982

 

 

 

 

 

 

 野見山暁治さん

 

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野見山暁治さんから、新著『異郷の陽だまり』を送っていただいた。

 

・夏風邪で2週間ほど床に伏せった病み上がりの身には、本当に嬉しいプレゼントだった。90歳を過ぎてなお、矍鑠として活躍されている画家、そして名エッセイストでもある野見山暁治さんから、新著『異郷の陽だまり』(生活の友社刊)が贈呈されたのだ。装幀はあの菊地信義氏である。帯の文章に「過ぎてみれば歳月は一瞬に縮まる。もう一度、あのしじまに立って、今の自分を見つめてみたい」とある。僕も野見山さんと同様、過去を懐古するより現在の自己直視が必要だと思っていたところだったので、贈られた本に飛びついた。

 この本を読めば、野見山さんの交友歴が歴然と分かる。例を挙げれば、藤田嗣治、麻生三郎、香月泰男、木村忠太、森芳雄、小川国夫、田淵安一……等が独特な視点で語られる。僕の大好きな椎名其二さんも登場しているが、画家・佐伯祐三のことや哲学者・森有正とやりとりが面白い。このあたり、よくぞと担当編集者を褒めてあげたい。こうした古い原稿を見つけてきて、単行本として編んだ意図が素晴らしい。また、無言館の窪島誠一郎さん(このわが社のホームページで、『夜の歌――戦没作曲家・尾崎宗吉の生涯』を執筆中)と一緒に菊池寛賞を受賞するに至ったくだりは、野見山さん独特の軽妙洒脱な筆致で思わず笑ってしまった。ついでに思い出したのが、窪島さんの温情により、長島秀吉君が亡くなる前年(2008年)6月、貸切バスをチャーターして上田市・無言館を訪れ、閉館後、この無言館でクラシックの演奏会を催したことだ。とりわけ椎名其二さんが勧めてくれたベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番が目玉だったが、窪島誠一郎さんもよくぞ承諾してくれたと、今でも感謝しているし、貴重な思い出ともなっている。

・この本で、興味をもった箇所がある。僕が高校生の時、ドイツ語を教わった坂崎乙郎さんのことだ。野見山さんは坂崎さんのことをたった1行しか書いていないが、その文章が僕の多感な高校生時代を思い出す導火線となった。坂崎乙郎さんが、西ドイツのザールブリュッケンに留学(3年間)して後、早稲田大学高等学院のドイツ語の教師となって帰国、僕らを指導してくれた。あの有名な処女作『夜の画家たち』(雪華社刊)を出す2年前のこと。新進気鋭の西洋美術史研究家、美術評論家として、世に出る直前のことだった。

・坂崎さんは僕ら高校生を相手に、ドイツ語より絵画の研究を情熱的に語った。僕はそういう人が好きだったから、この授業を大歓迎した。(僕の長男が大学でひょんなことから、坂崎先生を尊敬している哲学者・社会学者と知り合いになった。その方が坂崎フリークともいえる方だったのも不思議な縁を感じる)。坂崎先生は次々と素晴らしい本を書き、僕も興味を惹かれて買いまくった。

・主にドイツ表現派、幻想派の画家を紹介した。分けても、28歳の短く波瀾に満ちた生涯を送ったウィーン表現主義の画家、エゴン・シーレの愛と苦悩を名文で語ったのにはしびれた。僕の興奮は頂点に達したといってよい。それがなんと、坂崎さんも57歳で自殺してしまう。父親の著名な美術史家・坂崎坦は、91歳と長生きしたのにである。巷では憶測が渦巻いた。その自殺の前、親しかった鴨居玲さん(鴨居羊子さんの弟)が自殺。その影響も論じられたものだ。野見山さんの著書から話が飛躍してしまったが、このような連想に至ったことにむしろ喜びを感じる。

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かつて長島秀吉君が経営していた長島葡萄房(東京・杉並区方南町)を訪れて、くつろぐ野見山暁治さん。画面には見えないが、勝呂さんの絵が数点、店内に飾られていた。長島葡萄房のコンサートによく通った清流出版の社員は、見た覚えがあるはず。

 

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個展会場で野見山さんとのツーショット。

 

 

 

 

 

●新井苑子さん

 

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新井苑子さんから絵画をプレゼントしていただいた。

 

・新井苑子さんから。絵画のビッグ・プレゼントが届いた。ある日突然、デパートから大きな包みが届いた。開けてみると、上のような絵画が出てきた。これまでも新井さんは、新しい郵便切手をデザインするたびに、僕に送ってくれた。今回は、月刊『清流』の表紙絵をジークレー(Giclee)版画にしたものであった。近年、ジークレー版画は吹き付けて着色する方法で、最も原画に忠実な表現ができる技法として注目されている。この度いただいた絵は、タイトルが「オランダの花祭り」で、木靴の中から美しい花々が咲いている風景が印象的だ。新井さんらしいイメージで表現した優れた作品である。新井さんの話では、京都新聞社、読売新聞西部本社(福岡)の依頼を受け、年末美術家チャリティー展のために版画にしたという。

残暑お見舞いの書状も同封されていた。その時僕は、2週間ほど、夏風邪をひいてうんうん唸り、酒も飲めない状態で、心が晴れぬ日々を送っていた。大好きなジャズやクラシック、映画やミステリーにも全然興味が湧いてこず、71歳の夏を迎えて、もうこれで終わりかと思えるほど落ち込んでいた。そんな絶不調の時、届いた絵である。見るだけで、気持ちが明るくガラッと弾んだ。新井苑子さん、本当に有難うございました。

 

・新井さんのことを話す時、昨年2月、同じ町内(東京・世田谷区成城)でお亡くなりになったご母堂のことに触れねばなるまい。97歳で逝去されたが、長く『清流』の有料購読者であった。隅々まで読み、分からないことがあれば、辞書や事典を使って調べるほど向学心の強い方だった。こういう読者がいることを知るだけで、編集者は元気をもらえる。支えられていることで励みになるものだ。

 また、令息についても触れておきたい。医学博士で、日本形成外科学会認定専門医であり、米国ハーバード大学形成外科研究員(2007-2009年)と素晴らしいキャリアだ。現在は、日本医科大学付属病院准教授、医局長を務めておられる。趣味は、ジャズ、ドラム演奏、米国のSF・サスペンス映画鑑賞、スキー、バドミントン……など。数々の画期的な医学的解析、治療法を編み出した方である。どうしたらこのような優れたご子息が持てるのか、新井さんからじっくりお聞きしたい。もっともご主人の姪御さんとその旦那さんが病院を経営しており、いざとなったら身内だけで全身どの部分でも診察してもらえるというから、うらやましい限りである。

 

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かつて新井苑子さん(後列右)は、われわれ夫婦を招待し、美味しいフランス料理をご馳走してくださった。後列左は松原淑子(月刊『清流』編集長)

飯島晶子さん

清流出版 (2011年8月19日 14:14)

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飯島晶子さんのご招待でコンサート『未来への伝言』を観る。左から飯島晶子さん、谷川賢作さん、杵屋巳太郎さん、おおたか静流さん。(写真提供:VoiceK

 

・今回は、二つのことを書きたい。一つは飯島晶子さんの「未来への伝言」と題した朗読&コンサートのこと、もう一つは小池邦夫さんと俳優の緒形拳さんの25年間の絵手紙交流を中心にした交流展についてである。二つのイベントの背景に脈打っているのは、東日本大震災の復興支援への思いであり、ともにしみじみと感激したからである。

 

・まず、声優・朗読家の飯島晶子さん(写真をご覧になる方は、このホームページ20061月号を参照)からである。飯島さんとは、弊社から初の著書『声を出せば脳はルンルン』を刊行して以来、お付き合いが続いている。この本にはCDがついていて、早口言葉や有名な詩、歌詞、小説の一節、さらには般若心経まで、録音されている。脳の活性化には恰好の教材であり、僕も脳出血のリハビリの一環として大いに利用させていただいた優れものだ。

 

・その飯島さんは、年齢が五十代でお孫さんもいらっしゃるのだが、どう見ても四十代にしか見えない、若々しく美しい方なのだ。去る2011722日、朝日新聞の「55プラス 孫と楽しく1」欄に飯島さんが登場されていた。飯島さんは、仕事を持つ娘さんを「支えたい」と、孫の花音(かのん)ちゃんの面倒を見ておられる。そして、お孫さんから「あーちゃん!」と呼ばれているそうだ。「若くて美しい方=飯島晶子さん」の印象は、孫がいようといまいと僕には変わらない。この新聞記事が出た一週間後、「未来への伝言」のコンサートがあったのだ。招待された僕は妻と勇躍出かけた。

 

・このコンサートには過去二回、招かれている。今回の会場は、豊島区西池袋の自由学園明日館であった。あの帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトの傑作で、重要文化財指定の建物である。僕は結婚するまで豊島区の住民だったが、まだここを訪れる機会がなかった。だからぜひ行きたいと思っていた。この建物の設計を依頼した羽仁吉一・もと子夫妻の深い見識が感じられる。すぐ近くには、お二人が創業された(株)婦人之友社もある。僕は木の温もりが感じられる会場の落ち着いた佇まいに痺れた。暖炉がしつらえられてあり、クリスマスのイベントでは、ここで薪が燃やされるという。パチパチと赤く燃える焚き木は、きっと人の心を解きほぐし、温めてくれるに違いない。

 

・コンサートの名称は、「未来への伝言 ひとり ひとり…ひとりじゃない」だったが、今年はその前に「東日本大震災復興支援チャリティーコンサート」の名称が付いていた。コンサートは素晴らしいの一言であった。舞台に登場した皆さんが実にいきいきと躍動していた。僕は、このコンサートを、一昨年(会場は東京ウイメンズプラザホール)、昨年(会場は文京シビックセンター小ホール)と観ているが、今年は大震災復興支援をストレートに、真剣に打ち出すことで例年以上に盛り上がった舞台の印象をもった。

 

・出演者をご紹介したい(敬称略)。 

 杵屋巳太郎(三味線・人間国宝)、谷川賢作(ピアノ、作・編曲)、おおたか静流(ヴォーカル)、飯島晶子(朗読)、ZEROキッズ(合唱)、クラーク記念国際高等学校の学生さん約80名(パフォーマンスコース)といった方々だ。

 最初のプログラムでは谷川俊太郎の詩がうたわれた。

 

ひとりひとり違う目と鼻と口をもち 

ひとりひとり同じ青空を見上げる 

ひとりひとり違う顔と名前を持ち(略)…

ひとりひとりどんなに違っていても 

ひとりひとりふるさとは同じこの地球…

 

 全員が、この詩を一節、一節読んだ。やはり谷川俊太郎の詩はよい。

 

・次に、おおしばよしこ作 じょうたろう構成の『みえないばくだん』がうたわれた。

 

むかし、せんそうがありました。

そらにひこうきがたくさんとんできて

ばくだんをおとしたり、

おとされたりしました。(略)

…えらいひとたちがべんりになるものをつくりました。

…(略)…あるひとがいいました。

「たしかにべんりになるけども、

これは『ばくだんになるもの』じゃないの?」(略)

 

・飯島さんの『みえないばくだん』の朗読に、三味線、ピアノ、ヴォーカルがかぶさる。おおたか静流の津波を表現した発声は、その迫真性に思わずぞくぞくと寒気を覚えた。この谷川俊太郎の詩と『みえないばくだん』の二曲を聴けば、コンサートの意図がはっきり分かる仕掛けになっている。それほどに、日本は現在、危機的状況に置かれている。未だ出口の見えない原発問題が、国民一人ひとりの上に重くのしかかっていることを再認識させられた。

 

・次は、谷川俊太郎作詞、杵屋巳太郎作曲『五つのエピグラム』より、『原爆を裁く』『五月の人ごみ』がうたわれた。三味線(杵屋巳太郎、杵屋長之助)、ピアノ(谷川賢作)、歌(おおたか静流+クラーク記念国際高等学校の生徒さん)の総メンバーで、中身が濃いメッセージだった。

 

・『原爆を裁く』は、長らく(約四十年間)放送・発表禁止にされてきた楽曲であるとのこと。ピアノ(谷川賢作)と三味線(杵屋巳太郎)の即興演奏が、胸に突き刺さってくる。そして、田村依里奈作詞作曲 クラークオリジナルソングの『ずっと忘れない ずっと頑張るよ』がうたわれた。僕も「東日本大震災」になぞらえて、こういうしかないと思った。これで第一部が終わった。

 

・第二部も充実した内容で、心にジーンと来た。朗読あり、歌あり、三味線あり、ピアノあり、パフォーマンスあり、で素晴らしい内容だった。来年は、清流出版の社員一同と一緒に来たいものだと思った。

 

・内容にも少し触れておきたい。おおたか静流がうたう『三月の歌』(谷川俊太郎作詞 武満徹作曲)、『明日ハ晴ハレカナ曇リカナ』(武満徹作詞・作曲)、『ピリカチカッポ』(知里幸恵作詞 おおたか静流作詞・作曲)が、何とも不思議な世界へと誘い込む。静流さんの声は、七色に変化するのだ。

『ピリカチカッポ』は、NHK教育テレビの「にほんごであそぼ」で3年前、『銀の滴ピリカチカッポ』が放映されて、幼児たちに人気となった。アイヌ語で「シマフクロウ」を表し、僕の感じでは老若男女問わずアピールする歌である。

 その後、『谷川賢作ピアノの世界』、『杵屋巳太郎三味線の世界』、『寶玉義彦(南相馬から)』と続いた。寶玉義彦は、若い詩人であり、普段は南相馬市でパッションフルーツを作っている方だそうだ。被災地の生の声を初めて聴いた。

 

・あと忘れていけないのは「被爆ピアノ」の存在である。原爆で跡形もなくなった広島で奇跡的に生き残ったピアノが、調律師・矢川光則によってよみがえり、コンサート活動を続けている。終始、谷川賢作のピアノ演奏がしっかりと音を出している。この被爆ピアノは、2010911日にはアメリカ・ニューヨークに渡り、「被爆ピアノ」を奏でて平和を願ったという。2001年の米同時多発テロの犠牲者を追悼するコンサートを開催したことでも有名になった。

 

その後、飯島晶子さんが『子どもたちの遺言』(谷川俊太郎作 ピアノ・谷川賢作)を朗読し、いよいよ最後の番組『祈り』(佐々木香作詞 谷川賢作作曲 ZEROキッズ+クラーク記念国際高等学校)へと続く。約90名の出演者が、演出(飯田輝雄)の素晴らしさもあり、一段と充実しているように感じた。

 優れたコンサートで、感動、感激した。

 

・東北の人々の底力を感じ、ともに未来を信じ、心を込めて、うたい、語りたい 復興支援オリジナル作品を! こども・大人ジャンルを超えての合唱「祈り」を!――と、プログラムにあるように、そして、ひとりひとり… ひとりじゃないとのメッセージを僕なりにきちんと受け止めた。飯島晶子さん、ありがとう!

 

・蛇足だが、飯島晶子さんの朗読の会が925日(日)、東京・神楽坂の矢来能楽堂(1230分開場、13時開演)で行われる。物語と能。二つの源氏物語が楽しめる。

 『源氏物語』の「葵・賢木」より飯島さんが現代語訳を朗読する。その後、仕舞「半蔀」「葵上」、能「野宮」を演じる。「野宮」でシテ(六条御息所)を観世流の遠藤喜久、ワキ(旅僧)を下掛宝生流(シモホウ)の工藤和哉が務める。その工藤和哉は僕より四歳下で、学生時代から一緒に謡をよくやったものだ。現在は職分として、一段と芸域が向上した。

 

飯島2.jpg

全員で盛り上がって、最高の舞台が繰り広げられた。被災地の方々にも観てもらいたいと思った。(写真提供:VoiceK

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